精神を患うと頭がこういう事になる

統合失調症を患っている僕の頭の中身。哲学、読書、ロックバンドはオヤツです。

正論ではなく肉声で伝える意義と意味

こんばんは、Waiです。

 

過去に感謝の強要はよくないとか散々ほざいてきましたけれども、本当に正論だけで人を救えたらどれだけいいかと思いますよ。

世の中正論つきつけられて、重箱の隅をつつくようなことされたら何も言えないじゃないですか。

といいますのもね、今日の両親の会話を聞いて改めてそう思ったわけですね、

 

そのお話から少し。

 

母が携帯を壊しまして、そのなかで某アイドルのファンクラブ会員のみの数量限定販売DVDをどうやって買うか思案していたわけですよ。

色々手は尽くしたのですが、人間って脆いですね、携帯がなくなると手も足も出ない。

結局すったもんだしている間にDVDは売り切れ。

某アイドルが唯一の趣味であり生きがいであった母はもう泣き崩れそうな勢いで、落胆しているわけですね。

こちらとしても、他に良い策はなかったものかと反省点は沢山あるのですが、それでも売り切れてしまったDVDはもう手に入らない。

母にとってそのアイドルは先述しましたとおり「生きがい」そのものですので、無趣味で専業主婦だった母をここまで毎日輝かせてくれたアイドルには御の字しかないと言いますか、それがあったからこそ母は今まで生きてこられたといっても過言ではないほどなので、その辺を加味したうえでここから先を読んでいただきたいのですが、そんな風にして落胆している母に対して父が放った一言が「焦らなきゃいいのに。」とアッサリ呆れたように言ったんですわ。

そりゃもうド正論といいますか、そりゃ焦らなかったらもっと良い案があったりとかしてDVDが手に入った「かもしれない」ですよね。

でも母が言ってほしい言葉はこれではないわけですよ。

 

些細なことだと思うかもしれませんね。

ですが、その人がその人の人生において何に重きを置いているか、大切にしているか、大事にしているかはその人にしかわからないし、その人を良く見ていないとわからないものです。

母にとってそのアイドルが無くなることは、そのグッズをコレクションできないことは、身を切るようにツラい事なのですよ。

あえて言うなら、誰かが亡くなったとき、傷つけられたとき、「~なんて言わなければよかったね」というような「栓無い事」を言うに等しいわけです。

バカなことを言っていると思いますか?大げさだと思いますか?でもあなたは母の事を何も知らない。

「生きがい」に対し今回で言えば「正論」をつきつけるというのは、それほど「栓無い事」なのです。

ましてや重箱の隅をつつくように「母の過失をそのまま伝える」(もちろん父が慰みで言っているのはわかりますが)というのは気持ちがいいものでは決してありません。

また、似たような励ましに「次があるよ!」というものもありますが、あなたがその人の人生の責任を取るわけでもないのに、無責任な発言は傷を広げるだけなので言わないがよろしいとも思います。

 

そういう事もあってか、母はやはり傷口に塩を塗られたがごとく、文字通りの泣き寝入りです。

こういう時の母は危なっかしくて見ていられないというのも正直なところなのですが、「焦らなければいいのに」と言われて、落胆している人間が「そうだね、次気を付けるよ!」となるのは、場合によっては漫画のようなお気楽展開にはならないわけですわ。

性根がポジティブな人間なら、それも良いかと思われますが、本気で落胆しているときは「共感」が良いのではないかと僕は常々思っております。

叱咤激励するのはメンタルが回復してきたころで一番威力を発揮するものだとも思いますし、人間そこまで強くできているとも思えません。

なにはともあれ「共感」ですが、正確には「相手の気持ちに寄り添う」というのが難しくとも正解かなと。

激励は相手に「こうなってほしい」というのを伝えるものなので(本質としては)、相手の気持ちがついてくることが前提です。

ですがその元気がない人には、ひとまず、その原因をさぐり、それをそっと包むことではないでしょうか。

悲しみに寄り添い、話を聞いてくれるだけで「癒し」を貰うのですね。

論理的に話すのが難しい話題、感覚で僕はこの辺をとらえているので、説明が難しいのですが、頭の中には常にこのイメージが浮いています。

 

行間というのがありますが、多かれ少なかれ、自分の気持ち(感情)というのは相手に伝わっていることが多いです。

だからといって望んだ結果になるわけではありませんが、何より僕が身近に一番手ごたえを感じているのは「肉声であるかどうか」だと感じています。

このブログもそうですが、僕は僕の言葉で話しているので、汚い事も言いますし、正論じゃないこと、社会的に認められづらい事も伝えています。

それは、その必要性があるからです。

認めづらい事、マイノリティなこと、それらが日の目を見ることはほとんどないですが、それも世界の一側面です。

正直言って、そういう言葉が響きやすい人っていうのは一定数いるものです。

それはブログのアクセス傾向を見ていても、日常的な会話でも、響いてくれる人が居るのは間違いないのです。

僕はそういうネガティブであったり、一本筋ではいかないような思想が多い、けれど、それが響いて考えてくれる人が一定数いることから、みんなに目を逸らしてほしくはない。

功利主義といって、最大多数の幸福が求められる時代、多数派には恩恵があり、少数派は日陰者です。

ですが、僕はその「自分自身が少数派であり、多数派がどうしても取りこぼしてしまう部分をフォローする役割」というのに人生の重きを置いています。

だからこそ「肉声」で言いたいことを、このブログで恥も外聞もなく吐き散らしている。

正論だけで、世の中の理だけで、ロジカルさだけで、人間が救えたら、誰も迷わず苦しまず正しき所へ導かれるはずなのです。

それができないのは、正論の限界であり、世の中の限界であり、ロジカルさの限界なんです。

だから僕は、同じように「しっかりと肉声で伝えられる、考えられる」人たちと手を取り合っていたい。

 

ささいな原因でしたが、そんなことを考えていました。

正論だけで、人は救えないというのも正論ですし、正論で人は救えるというのも正論です。

自分自身の正しさからは誰も逃れられない。

それを突破するのがこれからの生き方であるのでしょう。

全く持って勝算はありませんが。